雨ニ対ヒテ月ヲ恋フ

その時々の想い・考えを書きつづってみる

日本の仏教について③

3.近世の日本仏教の制度化

近世幕藩体制のなかの仏教

 「日本の仏教について②」でも述べたように、遁世僧たちは新たな教団を作り、積極的に穢れに関わることによって、神道に組み込まれることのなかった葬送の場面において、力を発揮することとなった。それは、誕生や結婚などの生と結びついた神道と、葬送儀礼に関わる死と結びついた仏教との宗教上、信仰上の棲み分けが行われ、「安定した生活構造が確立しえた」(末木 1992: 236)と見なすことも可能だろう[1]。それゆえ、近世の仏教の第一の特徴は、「葬式仏教」の確立をあげることができる。

 そして、さらに近世の特徴としては、教団の拡大によって生じた権力との拮抗とその後の懐柔、さらに制度として確立していったことを挙げることができる。まず、仏教組織が大きな集団となり、しばしば時の権力者や地方の戦国大名と拮抗し始めた。比叡山高野山・根来、本願寺の大寺院や大教団は、近世初期までは権力者に対抗していた。また、一向一揆の拡大や京を舞台とした法華一揆などが台頭していた。織田信長豊臣秀吉は、それらの抵抗運動を実力行使によって平定していったことによって、次第に戦国領主をしのぐほどの力をもつことはなくなって行った。その後の徳川政権は、1601(慶長6)から1615(元和元)年までに諸宗派ごとに出した諸宗諸本山法度[2]・寺院法度を嚆矢として、それまで朝廷にあった僧侶への影響力を排除し、幕藩体制のうちに取り込んでいった。そのような政治的に行われていった仏教界の改変なかで、現代日本にまで関係する制度としては、このとき作られた本末制度と寺檀制度(檀家制度)がある。

 徳川幕府は、中世までに宗派ごとに成立していた本山-末寺の関係を制度化するために、各宗の本末関係を提出させ、すべての寺院を「本山―本寺―中本寺―直末寺―孫末寺」のように系列化してしまい、寺院間の関係性を固定化することを目指した。この本末制度は、寺院の力関係を明確にすることになり、「諸種の上納金をとるとともに、人事権をはじめ強大な権力をもって末寺を支配すること」(末木 1992: 238)を可能とした。さらに寺檀制度は、キリスト教の禁教の貫徹(「宗門改帳」の作成)と寺院と檀家の結びつきを固定化させ、寺院を幕藩体制のうちに取り込み、思想面でも行政面でも幕藩体制の安定化に寄与することとなった。そして、それが今日まで、寺院と信者との関係の基礎となっている。

 とはいえ、そのような檀家制度の形態も、現代では崩壊しつつある。その事例としては、檀家の減少による無住寺や過疎化による廃寺などの社会問題として語られるようになっている。檀家制度の崩壊は、地域の崩壊とそれに拍車をかける個人主義の結果であり、現代社会に特有のものであるとされるが、この見解は、一方においては正しいが、すべてであるとは言えない。

 たとえば、緩やかな個人主義は幕府によって整備された檀家制度にもみることができる。この制度は、単に寺院と家とを結びつけたのではなく、家単位で墓碑を立て、個人を記憶し、供養するという副産物を生み出したのであり、この時から個人の供養は意識されるようになったからである。そして、これが現代にまで一般化したのだ。つまり、現代になって個人主義的になり、檀家制度が崩壊しているというよりは、もともと個人を記憶するという形態がこの時できあがったと考えるべきである。それでもなお、檀家制度が可能であったのは、家制度があったと見るべきだろう。確かに、個人を供養することが仏教伝来以来なかったわけではない。高取・橋本が述べるように、法隆寺の「玉虫厨子」のような個人の念持仏を安置する厨子に見られるように、個人供養がなかったわけではない(高取・橋本 [1968]2010: 173)。しかし、伝統的な先祖祭祀のあり方としては、個人というよりは没個性の「御先祖さん」というような霊格をまつることであり、積極的に個人を記憶し供養することではなかった。家の構成員すべてが同等に供養されたというわけではないとしても、亡くなった個人を記憶する供養塔としての墓が作られるに至った点をみると、個人主義の萌芽のようなものがあることが分かる。檀家制度は、日本の近代化によって地理的・社会的な移動が自由になり、個人主義が完全なものへと展開し、家制度の維持が困難となって解体したのだと考えられる。そして、われわれが見ている仏教の現在は、この地点にあるのだ。

 

現代の仏教が抱える問題

 多くの僧侶が葬式や法事のみで仏教に関わるのではなく、日ごろから関わることを望んでおられるようである(この節は、社会調査報告書の一部であり、聞き取りから記したものである)。「よく生きるためには、死について不安に思うことなく生きること、そのために仏教の成すことはある」と述べられる方や、あるご住職は、「仏教にはまって面白さを知ってもらうためには、裾野を広げることだ」と語り、仏教を広めていくことについて考えを聞かせてくださった。

 なかでも印象的な語りは、「一般的に宗教は社会貢献すべきという考えがあるが、どのように考えるか」というわれわれの質問に対して、「都市と地方で抱えている問題が異なる」という対象者の回答であった。われわれの調査は、大学から公共交通機関を使って訪ねやすい地域にお住いの対象者に絞ったために、多くは都市部の寺院のご住職にお伺いすることになった。だが、その方がたのなかには、過疎化が進む地域の住職も兼ねる方がたもおられ、「都市と地方にある相違点」について考えを述べられたのであった。その方がたによれば、地方では寺院の経済活動だけでは生活はできず、公務員などの兼業の方がたが多く、平日は別の仕事を行い、土曜・日曜は法事にあてられるため、「地域の中心になること」や「社会貢献活動に積極的に参加すること」などの時間を取ることが困難であると話しておられた。

 確かに、「お寺はかつて地域の拠点だったのだから、地域に根差して活動していけばいいのではないか」というような意見も聞かれるが、江戸期のように国民皆仏教徒だった時代であれば、地域のお寺の公共的機能に期待もできただろうが、現在ではそれを望むのは難しい。とはいえ、信仰の自由が謳歌される現代にあって、地域全体や家族単位での信者を得ることは期待できないのであれば、個人への布教をすすめるしかないだろう。しかし、仏教は、そもそも共同体の宗教であったのだろうか。この連続の論考では、このことを次回以降で確認していくが、その前に仏教がどのように広まっていったのか、つまりどのような手段で布教がなされていったのかについて、概観しておこう。

 

仏の教えを乗せてゆくもの

 仏教が、釈迦牟尼の教えに基づくものであるならば、その教えがいかなるものであるかを伝えるすべがなくてはならないが、どのようになされていったのだろうか。真っ先に思いつくのは、仏像であろう。仏教公伝として知られる、百済聖明王[3]から大和の大王に送られた経典とともに贈られた仏像の例もある。仏像は人型をした仏神[4]、あるいは永続的に崇拝できる「神」として、仏教の教えを伝える聖なるものとして人びとのうちへと浸透していくこととなった。また、寺院にある木造や乾漆像や金銅像だけではなく、地蔵信仰によって広まった路傍の石地蔵菩薩は、地獄にまで救いを差し伸べる庶民や子どもの仏としての性格を、日常的に人びとに対して伝えたことと思う。今でも京都市内には、多くの地蔵菩薩が安置され、夏には子どもたちの祭りとしての地蔵盆[5]などもあり、身近な存在となっている。

 絵画もまた、仏教の教えを伝えるものである。世界的には、釈迦の生涯や前世の物語が描かれたもの、経典の内容が図示されたもの、浄土が描かれたものなどがある。しかし、日本においては、上記のような種類のものが少なく、密教画として描かれた曼荼羅浄土教の流行によって描かれた来迎図、禅画の多くが残されている。『岩波 仏教辞典 第二版』の「仏画」の項には、「平安末期から鎌倉時代にかけては仏教の大衆化が進み、教化布教の対象としての仏教説話画が流行する一方、中国渡来の禅宗絵画などが興隆し、仏画の展開は事実上終焉を迎えた」とあり、布教活動にも用いられたことがわかる。縁起絵巻のように寺院の由緒・起源を伝える絵巻物や、祖師たちを描写した「絵伝」は、その偉業と仏の教えの要点をわかりやすく伝える方法となった。それ以外にも、地獄図などによって絵解きを行い、死と死後の世界との関係で、仏教の教えをもとに「今なすべきこと」について語られてきた。

 さらに、僧侶そのものが仏法の乗り物となって、各地を行脚(あんぎゃ)・遊行(ゆぎょう)して各地に教えを広めていった(先述の「勧進」もまたそのひとつである)。彼らにとっては、「托鉢を糊口(ここう)の資としてひたすら解脱を求めるのが本意」(「遊行」『岩波 仏教辞典 第二版』)であったとしても、僧侶たちを迎え入れる者からすれば、それは仏法を運ぶ者であったことだろう。現代より、移動が容易ではなかった時代には、村と村、共同体と共同体を結び行く者は、世間を知るための一つの手がかりであっただろうし、時代によっては、技術を伝えるものであったと思われる。勧進を行う者も仏教を伝えて歩いただろうし、同様に念仏踊[6]は各地に広がり、今も盆踊りなどのようなかたちで残っている。また、現在では、落語や講談のようなものにとってかわられているけれども、話芸の伝統ももともと説教を行うためのものであった。

 ここまで仏像や仏画、僧侶を仏の教え/仏法の「乗り物」という言葉で表現してきたが、これを「メディア」ということができる。メディアには、情報を伝達する仲介者としての意味があるから、このように考えることは問題ではないだろう。それぞれのメディアが、仏の教えを伝え、それらに触れた者はその教えを受け取っていたと思われる。現代の寺院でも、門前の掲示板の言葉や、定期に発行されている寺院の広報、ときどきに更新されるホームページなどによって寺院の情報や仏教について発信され、人びとに教えを伝えている。SNS時代の現在では、組織のアカウントや個人のアカウントをもって情報が発信されている。このように仏の教えは、時代によってさまざまな乗り物で伝えられてきた。立命館大学社会学実習の報告書『寺院・僧侶のSNS利用について—―16名の僧侶・寺院関係者へのインタビュー調査から』では、そのなかでも仏教関係者はSNSをどのように利用しているのかということに焦点が絞られ、それぞれの章で論じられている[7]

 

[1] 日本の伝統的な信仰のかたちのうちに「死の観念」「死後の世界観」が脆弱であるか欠けているというのは、これまで多く指摘されるところである。

[2] 江戸時代の初期から本山格の有力寺院(比叡山、東寺など)や宗派に対して出された。寺院内での案を提出させたこと、また本山の影響力の強化にもつながったことなどにより受容されたという側面もあるが、幕府による管理・統制に与することとなった。しかし、民衆に幅広い支持をもつ、浄土真宗日蓮宗には当初法度を出すことができなかった。

[3] 「正しくは〈聖王〉。〔百済を立て直した父・武寧王の後を継ぎ:引用者〕日本と修好し、仏像・経論を大和の朝廷に献じた」(『岩波 仏教辞典 第二版』「聖明王」の項より)。

[4] 日本古来の神は人の形をしていなかったため、かなり奇妙なものとして映ったようだ。

[5] 地蔵盆は、近畿地方を中心として、8月23日ごろに行われる。

[6] 「僧衆の〈踊念仏〉に対して在家信者の踊りを〈念仏踊〉と言って区別する。中・近世の一般的用語としては両語を同義に用い、特に区別しないことも多い」(『岩波 仏教辞典 第二版』「念仏踊」の項より)。

[7] 本来、今回書いていることは1章を構成するものであったが、担当する学生の個人的事情により残念ながら調査に最後まで参加ができなくなり、執筆することができなくなってしまった。そのため、筆者の責任において内容も当初の計画とは大幅に変更して書かれたものである。当初の計画では、宗教は新しいメディアに親和的であり、仏教においてもそれが確認できるのではないかというものであった。当初の担当者によって、このテーマがいずれかの機会に発表されることを切に希望する。

 

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。

日本の仏教について②

2. ケガレの意味、穢れに積極的にかかわる仏教

 官僧たちがケガレを避けなければならなかったことを理解するためには、日本の信仰にとってのケガレの意味を知ることが重要であると思われる。なぜなら、どのような文化も発祥の地を離れて伝播するとき、あらゆる変容を伴うものであり、その変容は伝播先の土地の文化を取り込みながら行われていくものであるからだ。とすれば、インドを発って日本に至りついた仏教もさまざまな経由地の文化を取り入れながら、伝播の最終地点である極東の日本においても、この地の文化を取り入れて変容しているはずである。

 高取正男・橋本峰雄は、原始神道の「イミ」にはふたつの面があると指摘している(高取・橋本[1968]2010: 56-8)。それは、辞書的な漢字の使い分けにも見てとれる。「斎み」と「忌み」である。「斎み」は「ポジティブな行動原理としての戒慎」、すなわち「神事に慎むこと」であり、「忌み」は「ネガティブな行動原理としての禁制」、すなわち「嫌い避けること」である(高取・橋本[1968]2010: 57)。前者は「みずからの穢れを去って聖に近づこうとすること」であり、後者は「穢れを避けてみずからの聖性を維持しようとする」(高取・橋本[1968]2010: 49)ことであったため、聖なる存在である天皇に使える貴族や官僧たちは、穢れを避ける「忌み」を重視するようになったと思われる。

 たとえば、民間習俗においても「斎み」を見ることができる。高取は、その例として京都府福知山市三和町(旧・天田郡三和町大原町垣内(まちがいち)の産屋をあげている(高取 [1979]1993: 29-34)。大原の集落を流れる川合川の対岸には、産屋が立てられていた。産気づいた妊婦は、家族から離れて出産を産屋で行い、七日七夜をその場所で過ごす。産屋の立つ場所は川の氾濫でも水につかることもない場所で、産屋はその場所に流れ着いた木材によって建てられていたという。氾濫の被害を受けないその場所も、神のいる山から流れてくる木材も、神意によるものであり、その小屋で出産することは、生命を神から授かるということであった。それは、神=聖性へと近づくことであり、本来の「イミ」のあり方を、高取は説得的に論じている。

大原の産屋(「大原うぶやの里」HPより転載)

 天皇の即位に伴う大嘗祭がとり行われる大嘗宮も、平安時代の中頃までは、この産屋と同様の構造をもっていたと、さまざまな資料をもとに高取は推察している(高取 [1979]1993: 91)。高取によれば、大嘗宮の悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)ももとは「地面に束草を敷き、簀(す)をのせ、蓆(むしろ)を敷い」(高取 [1979]1993: 91)た簡素なもので、「いずれも原始時代の俤(おもかげ)をとどめているような、古風で質素なたたずまいというだけではすまない厳粛な宗教的意味合いが共通して存在している」(高取 [1979]1993: 91)[1]

 さらに、出雲の新任の国造がイミゴモリする際の「厳の真屋(いつのまや)」も、大原の産屋、大嘗宮の悠紀殿・主基殿と同じ構造をもっており、土間には、人に踏まれていない山野に自生する「麁草(あらくさ)」(「あら」は「生まれながらの」の意)が敷き詰められていた。そしてこの場で、潔斎してイミゴモリをする。イミゴモリは、聖性へと近づくことを目的として行われ(斎み)、それゆえ、聖性を身にまとおうとする者と、その者を周辺で世話をする者は、二次的に穢れを遠ざける(忌み)ということが重要になったのであろう。やがて、「斎み」よりも「忌み」の意識が優位になると、イミの堕落形態としてタブーを避けることだけが独り歩きすることになる。つまり、イミに対する意識を、「穢れを忌み避ける意識に局限すると、そのための禁忌だけがつぎつぎに架上され、それを守りさえすればよいとする堕落がはじま」(高取・橋本[1968]2010: 53)ったのだと考えられる。

 平安の貴族たちが、自身の肉親を荼毘(だび)に付して埋葬するまでを見届けず、また祖父の墓の場所さえ知ることはなかった(高取・橋本[1968]2010: 31-2)という、「死穢」をできる限り避けようとした傾向の意味も、先の事例から次のように理解できる。つまり、平安貴族にとってのイミとは、天皇という聖なる存在を汚すことのないように、自らも穢れを避けることを意味しており、中央の政府要人に見られる傾向であった。そして、それは個別の人びとの救済という目的ではなく、天皇に奉仕して全体としての国家の鎮護に関係する官僧にも同じようにケガレを忌避することが求められたのだった(松尾 1995: 57-60)。今では想像しがたいことだが、官僧は組織的に葬送儀礼を行うことはなかったこと、これが鎌倉新仏教との大きな違いである。このような官僧に対して、葬式や非人救済・女人救済に積極的にかかわったのは、遁世僧(とんせいそう)[2]とされる僧侶たちであった。

 松尾(1995)(2011)は、「穢れは基本的に伝染すると考えられて」おり、例えば、「甲なる人物が死体のある場所に留まり、その後で乙なる人物の家に行くと、乙の家の人々はみな死穢に触れたことになる」と見なされたことを紹介している。さらに、甲と乙の死穢の重さに差はなく、甲も乙も(乙の家の住人も)甲と同様に死穢に触れたものとされたという。人間の死穢は、神社に関わる規定を定めた『延喜式』によれば、もっとも強いものであり、穢れが消滅するという期間は30日と定められた。それは、ケガレのなかで最も長い期間が設定されていた。

 さらに、人間の遺体の一部に触れることでも死穢を受けるとされていたので、「五体不俱の穢れ」というものがあり、古代の貴族の日記にはたびたびこのことへの言及があると松尾は指摘している。この穢れは、例えば、犬などが遺体の一部を咥えて邸宅内に持ち運んでくるといったようなことで生じるもので、死体の遺存状況によっても異なるが、完全な遺体でない場合は、7日が死穢を忌む期間と定められていた。そして、これは道路や橋、河原などの開放的な空間にある死体では穢れることはないと考えられており、邸宅などのプライベートな閉じた空間にもち込まれることで発生し、伝染するものであった。

 貴族の日記にたびたび見られるこの穢れに対する言及から推測することができるのは、庶民の間では遺体を遺棄する、あるいは風葬することが一般的であったということである。そのため、この「五体不俱の穢れ」に注目することが、本節の課題である「死穢」の問題、さらには「葬送」を考えるうえで重要である。当時は道路や橋、河原が死体遺棄の場所になることも多くあり、現代の発掘調査でも平安から鎌倉時代の京都の道路の側溝や河原からは人骨などが発見されており、牛馬の骨とともに発見される例もあることから、葬送意識がない遺棄の状態であったことが分かっている。

 このように死体は遺棄され、さらに死期の迫った病人や老人などは、みずから河原などに赴いて死を迎えることもあった(貴族に使える下男・下女も死期が迫ると遺棄された)。それは高位の僧侶以外の支援者をもたない僧侶にとっても同様であったという。986(寛和2)年には、そうした僧侶たちの間で互いに葬送を行うという結社「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」が源信僧都(942-1017)によって組織された。この結社は、念仏三昧を修することを柱とするものであったが、そこに参集する僧侶の葬送協力についても取り決められており、葬送結社という意味合いをもつものであった[3]

 念仏結社の僧侶たちによって葬送儀礼は確立されていき、僧侶が葬式に関わるきっかけとなっていった。そして、このような結社が、武士や有力者の間に広まっていくこととなったが、それは人びとが「仏教式の葬送を望む」ようになったからであった。とくに「怨霊に対処するには仏教が最上の法」(高取 [1979]2010: 186)であったと高取は指摘しているように、「後生善処を祈る法会は死者の冥路に資し、護国の法会はこの世を害する霊魂の力を空無化し、その妄執から解脱させる力をもつからである」(高取 [1979]2010: 186)。どのような死者に対しても有効な力を発揮できるものとしての仏教という考え方が、奈良時代の後期から平安初期にかけて存在していた[4]

明恵房高弁

 鎌倉新仏教の源流の僧侶たちが、死穢を超越する論理を必要に駆られて確立していき、そのなかから遁世僧となって新たな宗派を成立させ、いわゆる鎌倉新仏教をつくっていくのだが、旧仏教の側からも死穢を含む「穢れ」に挑む改革派僧侶たちが輩出されていく。つまり、官僧の遁世僧化ともいうべき事態があらわれる。松尾の指摘によれば、「遁世」の本来の意味は、俗界を離れて僧侶の世界に入ることを意味していたが、僧侶の世界が俗界の影響を受ける、端的にいえば、僧侶の世界が乱れてしまったがために、そこからの離脱のことも遁世というようになった。具体的には、天皇や有力者の子弟が僧侶となって官僧世界へと入ってくることで、俗世界の力関係が官僧世界に影響するようになったこと、または、妻帯が戒律で厳しく禁じられていた僧侶たちが、稚児や童子のような男児を周囲に置き、男色文化が蔓延し、官僧の世界が乱れたものとなってしまっていた。それを嫌った僧侶たちは、そこから離れて(つまり遁世して)、一部は新たな遁世僧の教団を作り出し、それが今日でいう鎌倉新仏教の宗派にもなっていったのである。

 官僧の宗派に属しながら、戒律を重視し、遁世僧化していく僧侶としては、厳密とも称される華厳宗中興の祖である明恵房高弁(みょうえぼうこうべん)(1173-1232)、真言律宗の祖師で戒律護持・ハンセン病者救済などを行った思円房叡尊(しえんぼうえいそん)(1201-90)、その高弟で良観房忍性(1217-1303)や、京都岡崎の法勝寺の大勧進などをつとめた円観房慧鎮(えんかんぼうえちん)(1281-1356)などがいる。彼らは、改革派であるとする場合もあり、松尾のように遁世教団を作り組織化したとすることもあるが、どちらにせよ、官僧の世界から一定程度距離をもっていた人たちであると考えられる。このような遁世僧は、日本仏教におけるメルクマールであるといえるだろう。

 それ以前の僧侶と遁世僧の相違点は内的なものだけでなく、外見的な特徴も見逃すべきではないだろう。松尾が指摘するように、それ以前の官僧が白色の袈裟・法衣を着用することとは対照的に、遁世僧のそれは「黒色」であったという点にある(松尾 1995: 50-60)。黒衣の僧侶は、「異形」の姿であり、「穢色」の衣をまとった「乞食法師」であった[5]。遁世僧たちは、官僧たちによってラベリングされた黒衣によって、むしろ自分たちのアイデンティティを確立させたといえるだろう。

 

[1] 高取の推察は、われわれに豊かな想像力を与えてくれる。折口信夫の「天皇霊」についての考察を措くとしても、大原の産屋と大嘗宮が建築物としてだけでなく精神構造としても同様の形態をもっているとするならば、大嘗祭は新しい天皇として生まれることを意味するだろうし、さらにそれは神から賜るものであることをも同時に表した儀式ということになるだろう。これらの営みが行われた建物が、人為的なものではなく、自然の部材によって建築されたとするならば、あるがままのものがそのまま神意に適うものとする発想をもっていただろうことを推し量ることもできる。それはそのまま、日本のアニミズム的な自然観を背景にしたものではないかと考えることもできる。

[2] 「とんせ」「とんぜい(中世的な読み方)」とも。「世間から遁れ、仏門に入ること」。「すでに出家している者でも、その帰属する教団の組織からふたたび脱出し、求道生活に入ることをいう場合がある」(『岩波 仏教辞典 第二版』より)。

[3] 臨終作法については『往生要集』に、僧侶の結社の葬送方法については『横川首楞厳院二十五三昧起請』八か条本に記されている(松尾 2014: 60-1)。

[4] この時代には、神の祟りを読経や仏教的手段によって鎮めていた (高取 [1979]2010: 185)。

[5] 松尾の引く資料によれば、本願寺三代住持・覚如の『改邪抄』では遁世僧が「異形を好む」と書かれ(松尾 1995: 53-4)、戦国末期の史料「素(そ)絹(けん)記(き)」では、白が「天子本命(天皇にふさわしい清い色)」で、黒は「穢色」であると述べられている(松尾 1995: 54-5)。洞院公賢が1359(延文4)年に浄土宗の僧侶として出家する際に「乞食法師」の着る黒衣を着用する旨を日記『園太暦』に記したという(松尾 1995: 55)。このことからも、「黒衣」の僧としての異形性についてうかがうことができる。

 

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。

日本の仏教について①

はじめに

 この論考の課題は、日本仏教についてひとつの見方を提供することで、仏教についての理解を深めるとともに、巷に散見される仏教用語や仏教の知識について補足する点にある(有態に言えば、私の手控えである)。とはいえ、仏教教義の正しい解釈ということに主眼があるのではなく[1]、あくまでも「社会史」「社会思想史」として(宗教)社会学的な観点から、日本のなかで仏教がどのような社会背景をもとに思想的に分化・発展してきたのかということに主眼が置かれている。それゆえ、本章における記述は、特定の宗派に対して予断をもって書かれたものではなく、さまざまな文献から得られた知識をひとつのモデルとしてまとめ(理念型)、主観的な価値判断を避けて客観的な知識として記したもの(価値自由)である、ということをここでお断りしておく。

 

 

1.転換点としての鎌倉新仏教――救済の対象を拡大する

 よく知られているように、われわれに馴染みの多い仏教宗派の多くは、12世紀末から16世紀末頃の中世に起源をもち、発展してきたものである。それゆえ、本稿では、日本仏教史としての記述を中世・鎌倉期からはじめることにしたい。仏教伝来から順番に考察するよりも、一般的に知られている事柄を中心に前後に見渡して比較しながら押さえて考察するほうが理解に資すると思われるからである。

法然源空

 この時期に成立した宗派は、法然源空(ほうねんぼうげんくう)[2](1133-1212)の浄土宗、親鸞(しんらん)(1173-1262)の浄土真宗、一遍房智真(いっぺんぼうちしん)(1239-89)の時宗浄土教[3]系3宗派、明菴栄西(みょうあんえいさい)(1141-1215)の臨済宗道元(希玄)(1200-53)の曹洞宗禅宗[4]2宗派、日蓮(1222-82)の日蓮宗(法華宗)である。たんに新しい宗派が誕生したというだけでなく、忘れてはならないのは、これらの鎌倉新仏教の諸宗派以前の仏教、いわゆる旧仏教の復興運動もこの時期に展開されており、この時期は日本の仏教の転換点であったということである。

親鸞

 この当時の仏教の特徴を端的にまとめるならば、「個人」の救済に注目が集まり、寺院の担い手が「個人」単位へと拡がっていったということである。このことを宗教社会学者の松尾剛次(1995)は、「勧進(かんじん)[5]」「穢れ」「破戒[6]」について検討しながら指摘している。

明庵栄西

道元


 松尾によれば、中世以前の仏教寺院の建造・修理・運営を経済的に担っていたのは、国家や有力な氏族であったが、中世に活発化した「勧進」活動は、寺院の担い手が個人単位へと拡がったことを示しているという。また、勧進活動が全国的に盛んに行われたのは、仏教への信仰が個人単位となり、拡大していたことをも示している。さらに、救済の対象も貴賤を問うことなく、むしろ「穢れている」とされている人びとへと対象を積極的に拡大していくのも中世の特徴であった。それ以前の救済の対象は、天皇や権力者を中心とし、国家を鎮護するためのものであり、それと比べれば、対象としても個人を前提にするものへと変化していたことがこの時期に現れているといえる[7]

 では、「穢れ」を持つものとされたのは、誰であったか。それは、身体障碍者を含む「非人[8]」、死穢の象徴としての「死者」、五(ご)障(しょう)・三(さん)従(じゅう)[9]の存在としての「女性」の三者であった(松尾 1995)。当時、非人とされていたのは、ハンセン病[10]患者や病人、身体障碍者や乞食とされた人びとであった。確かに、そのような人びとが救済の対象にならなかったわけではないが、積極的に救済されたのは、中世の仏教者によるところが大きいようである。また、先にも述べたように、女性は、五障・三従の穢れた存在として、僧侶の修行の場からは遠ざけられており、また、「死者に触れたり、葬送、改葬、墓の発掘などに携わったために生ずる穢れ」である死穢を避けることは、天皇という聖なる存在に仕える国家公務員的な立場としての官僧にとって重要なことであった。

 

日蓮

 松尾の定義に従えば、「官僧」とは、「天皇から得度を許可され、国立戒壇のいずれかで授戒を受けて一人前となった国家公務員的な僧侶、いわば国家的な入門儀礼システム下にあった僧侶(集団)」(松尾 1995: 28)のことである。また、官僧とされるのは、鎌倉新仏教以前の南都六宗(俱舎(ぐしゃ)・成実(じょうじつ)・律(りつ)・三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん))と平安二宗(天台・真言)であり、基本的にこれらの寺院は、国家からの給付を受けており、お布施をするような信者集団を必要としなかった。それゆえ、天皇を中心とする政治システムのなかで主に鎮護国家を祈ることを期待された官僧たちは、穢れを遠ざける必要があった。

 

[1] 言うまでもないことだが、「“正しい解釈”などない」ということではない。どの宗派にも、それぞれの解釈があり、それぞれに「正しさ」というものがあるだろう。それゆえ、正しい解釈というものを一義的に定めることは困難である。このような事情から、本章でのさまざまな仏教的用語は一般的な解釈にとどまっている。重ねてお断りしておく。この論考は、以前、非常勤で受け持った社会学の調査実習の報告書で書いた文章を一部変更したものである。

[2] 文献によっては、坊号を「法然房」とする場合もあるが、ここでは『岩波 仏教辞典 第二版』「法然」の項目の表記に従った。また、この連続論考で使用している祖師たちの画像は、Wikipediaから取得した画像を加工したものである。

[3]浄土教」とは、「阿弥陀如来の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え」(『岩波 仏教辞典 第二版』「浄土教」より)のこと。

[4] 「禅は、インドではなく中国発祥の思想」。「道教などをベースとした出家者コミュニティがまず中国に存在し、それが『釈迦の仏教』の修行の一つである『禅定』(瞑想によって心を集中する修行)と結びついて、仏教集団となっていったのが起源とされ」る。「禅宗には特定の根本経典がなく、教えよりも生活スタイル(実践)がベースとなっている」(佐々木 2019: 209)。

[5]勧進」とは、「本来は、人びとを教化して仏道に入らせることを意味したが、後には社寺堂塔の造営・修復・造像・写経・鋳鐘など、種々の作(さ)善(ぜん)に結(けち)縁(えん)〔善行へと関係づけること:引用者〕して善根を積むことを勧め、金品を募集することを意味するようになった」(『岩波 仏教辞典 第二版』「勧進」より)。

[6] 「戒を破ること、また戒を破った人のこと」(『岩波 仏教辞典 第二版』「破戒」より)。

[7] たしかに、これ以前にも僧侶や信仰者によって、現代で言うところの福祉施設が設けられ、活動が行われている。聖徳太子四天王寺に作ったとされる四箇院(しかいん)や光明皇后悲田院(ひでんいん)、行基布施屋などがある。

[8] 「非人」という表現は問題を含んでいるけれども、当時の穢れの認識を強調するために、ここではこの表現に従った。また、松尾も指摘しているように、ここでの非人は、「近世(江戸時代)の制度化された身分としての非人とは異な」り、「癩病患者(ハンセン病患者)を中核として、乞食・墓堀などに従事した人々のこと」(松尾 2011: 52)である。

[9] 五障とは、「インド初期の仏教に出てきた思想で、女性は梵天帝釈天、魔王、輪廻王、仏という五つになれないというもの」で、三従は、「結婚前には父親に、結婚後は夫に、夫の死後は息子に従う存在」のことを言い、「独立人格を認められていない」存在として、女性は仏教的な能力に欠けるとされていた(松尾 1995: 122)。それゆえ、女性が成仏するためには、男性に転生する必要があると考えられていた。

[10] (松尾による伝聞情報ではあるけれども)らい菌が発見されるまでの皮膚科学は、重篤な皮膚疾患をハンセン病と区別する点に重点がおかれていたという医学部教員の発言が紹介されている。そのために、栄養状態を戻し、清潔にすることによって完治する皮膚病との違いが理解されていなかったため、ハンセン病を直すというような奇跡が起こる現象の原因となっていたようだ(松尾 1995: 83)。

 

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。

旅先の猫【沖縄2022年編】

む、無防備では?(那覇市

・・・白目。

道案内っぽい猫どのはときどきいらっしゃるよね(那覇市

くつろぎ猫どの(名護市)

ごろんとして、こっち向き。ご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じ・・・

ちゅ、駐車スペースなんですけど、よ、よろしいでしょうか?(名護市)

謎の石像と、ベストマッチしてますけど、確認ですが、石像ではないですよね?(南城市

 

歴史散歩【京丹後⑥:遺跡めぐり】

丹後三大古墳のうちで最大の網野銚子山古墳[あみのちょうしやまこふん]は、全長201mで4世紀後半の古墳である。

墳丘は三段で構成され、斜面には葺石、平坦面や後円墳頂上部には約2000個の円筒埴輪が立てられていた。

網野銚子山古墳(後円墳と前方墳のあいだが低くなっている)

くびれから見ると方墳の前方に向かって上がっていることがわかる

網野銚子山古墳・模型(丹後古代の里資料館)

古墳に立てられた円筒埴輪は丹後特有のもので、穴の開いたお椀をひっくり返した形のものがついている。

丹後型円筒埴輪(丹後古代の里資料館)

網野銚子山古墳の構造上の特徴としては、奈良市山陵[みささぎ]町にある佐紀陵山古墳[さきみささぎやまこふん]と大きさ、形状ともに一致するという点である。佐紀陵山古墳は、丹後出身で垂仁天皇の皇后・日葉酢媛[ひばすひめ]の陵墓として治定[じじょう]されているものである。丹後と中央との強いつながりを考古学的にも推定しうる遺跡であると言える。

(佐紀陵山古墳→ Google マップ )

網野銚子山古墳と佐紀陵山古墳の比較図(丹後古代の里資料館)

参考:京丹後市立丹後古代の里資料館、2013、『丹後古代の里資料館展示ガイド 丹後王国の世界』。

歴史散歩【福井県③:遺跡めぐり】

実際に一乗谷の一部の街並みが復元されている。

戦国大名の城下町。公家や学者、高僧、連歌師[れんがし]などの文化人が訪れる、高度に発展した町であった。

一乗谷には40ヵ寺の寺院があったという。

紺屋[こうや]・油屋・酒屋・檜物師[ひものし]・鍛冶屋・塗師[ぬし]・大工・数珠屋[じゅずや]などがあったことが発掘からわかっている。

門(復元された街並み)

復元された町並みに傘と布の飾りつけ

城下町近くにある朝倉屋敷跡(城は山の上にある)

朝倉屋敷の見取り図

朝倉屋敷の唐門。威厳がある。

www.google.com

福井県の歴史散歩』(山川出版社、2010年刊)

歴史散歩【福井県②:資料館めぐり】

一乗谷朝倉氏遺跡資料館。いろいろな資料があったのに、原寸大の朝倉屋敷もすごかったのに、ほぼジオラマしか撮ってないという…。ジオラマが好きなのだ。

一乗谷の復元模型 山側から見た街並み

一乗谷の大通り

暮らしぶり

いろんな職人さんの仕事ぶりも復元されている(染物)

便所の模型も。芸が細かい。

ほっこりもできます(お寺の池のカルガモ親子)

裏山にはキジもいます