雨ニ対ヒテ月ヲ恋フ

その時々の想い・考えを書きつづってみる

日本の仏教について②

2. ケガレの意味、穢れに積極的にかかわる仏教

 官僧たちがケガレを避けなければならなかったことを理解するためには、日本の信仰にとってのケガレの意味を知ることが重要であると思われる。なぜなら、どのような文化も発祥の地を離れて伝播するとき、あらゆる変容を伴うものであり、その変容は伝播先の土地の文化を取り込みながら行われていくものであるからだ。とすれば、インドを発って日本に至りついた仏教もさまざまな経由地の文化を取り入れながら、伝播の最終地点である極東の日本においても、この地の文化を取り入れて変容しているはずである。

 高取正男・橋本峰雄は、原始神道の「イミ」にはふたつの面があると指摘している(高取・橋本[1968]2010: 56-8)。それは、辞書的な漢字の使い分けにも見てとれる。「斎み」と「忌み」である。「斎み」は「ポジティブな行動原理としての戒慎」、すなわち「神事に慎むこと」であり、「忌み」は「ネガティブな行動原理としての禁制」、すなわち「嫌い避けること」である(高取・橋本[1968]2010: 57)。前者は「みずからの穢れを去って聖に近づこうとすること」であり、後者は「穢れを避けてみずからの聖性を維持しようとする」(高取・橋本[1968]2010: 49)ことであったため、聖なる存在である天皇に使える貴族や官僧たちは、穢れを避ける「忌み」を重視するようになったと思われる。

 たとえば、民間習俗においても「斎み」を見ることができる。高取は、その例として京都府福知山市三和町(旧・天田郡三和町大原町垣内(まちがいち)の産屋をあげている(高取 [1979]1993: 29-34)。大原の集落を流れる川合川の対岸には、産屋が立てられていた。産気づいた妊婦は、家族から離れて出産を産屋で行い、七日七夜をその場所で過ごす。産屋の立つ場所は川の氾濫でも水につかることもない場所で、産屋はその場所に流れ着いた木材によって建てられていたという。氾濫の被害を受けないその場所も、神のいる山から流れてくる木材も、神意によるものであり、その小屋で出産することは、生命を神から授かるということであった。それは、神=聖性へと近づくことであり、本来の「イミ」のあり方を、高取は説得的に論じている。

大原の産屋(「大原うぶやの里」HPより転載)

 天皇の即位に伴う大嘗祭がとり行われる大嘗宮も、平安時代の中頃までは、この産屋と同様の構造をもっていたと、さまざまな資料をもとに高取は推察している(高取 [1979]1993: 91)。高取によれば、大嘗宮の悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)ももとは「地面に束草を敷き、簀(す)をのせ、蓆(むしろ)を敷い」(高取 [1979]1993: 91)た簡素なもので、「いずれも原始時代の俤(おもかげ)をとどめているような、古風で質素なたたずまいというだけではすまない厳粛な宗教的意味合いが共通して存在している」(高取 [1979]1993: 91)[1]

 さらに、出雲の新任の国造がイミゴモリする際の「厳の真屋(いつのまや)」も、大原の産屋、大嘗宮の悠紀殿・主基殿と同じ構造をもっており、土間には、人に踏まれていない山野に自生する「麁草(あらくさ)」(「あら」は「生まれながらの」の意)が敷き詰められていた。そしてこの場で、潔斎してイミゴモリをする。イミゴモリは、聖性へと近づくことを目的として行われ(斎み)、それゆえ、聖性を身にまとおうとする者と、その者を周辺で世話をする者は、二次的に穢れを遠ざける(忌み)ということが重要になったのであろう。やがて、「斎み」よりも「忌み」の意識が優位になると、イミの堕落形態としてタブーを避けることだけが独り歩きすることになる。つまり、イミに対する意識を、「穢れを忌み避ける意識に局限すると、そのための禁忌だけがつぎつぎに架上され、それを守りさえすればよいとする堕落がはじま」(高取・橋本[1968]2010: 53)ったのだと考えられる。

 平安の貴族たちが、自身の肉親を荼毘(だび)に付して埋葬するまでを見届けず、また祖父の墓の場所さえ知ることはなかった(高取・橋本[1968]2010: 31-2)という、「死穢」をできる限り避けようとした傾向の意味も、先の事例から次のように理解できる。つまり、平安貴族にとってのイミとは、天皇という聖なる存在を汚すことのないように、自らも穢れを避けることを意味しており、中央の政府要人に見られる傾向であった。そして、それは個別の人びとの救済という目的ではなく、天皇に奉仕して全体としての国家の鎮護に関係する官僧にも同じようにケガレを忌避することが求められたのだった(松尾 1995: 57-60)。今では想像しがたいことだが、官僧は組織的に葬送儀礼を行うことはなかったこと、これが鎌倉新仏教との大きな違いである。このような官僧に対して、葬式や非人救済・女人救済に積極的にかかわったのは、遁世僧(とんせいそう)[2]とされる僧侶たちであった。

 松尾(1995)(2011)は、「穢れは基本的に伝染すると考えられて」おり、例えば、「甲なる人物が死体のある場所に留まり、その後で乙なる人物の家に行くと、乙の家の人々はみな死穢に触れたことになる」と見なされたことを紹介している。さらに、甲と乙の死穢の重さに差はなく、甲も乙も(乙の家の住人も)甲と同様に死穢に触れたものとされたという。人間の死穢は、神社に関わる規定を定めた『延喜式』によれば、もっとも強いものであり、穢れが消滅するという期間は30日と定められた。それは、ケガレのなかで最も長い期間が設定されていた。

 さらに、人間の遺体の一部に触れることでも死穢を受けるとされていたので、「五体不俱の穢れ」というものがあり、古代の貴族の日記にはたびたびこのことへの言及があると松尾は指摘している。この穢れは、例えば、犬などが遺体の一部を咥えて邸宅内に持ち運んでくるといったようなことで生じるもので、死体の遺存状況によっても異なるが、完全な遺体でない場合は、7日が死穢を忌む期間と定められていた。そして、これは道路や橋、河原などの開放的な空間にある死体では穢れることはないと考えられており、邸宅などのプライベートな閉じた空間にもち込まれることで発生し、伝染するものであった。

 貴族の日記にたびたび見られるこの穢れに対する言及から推測することができるのは、庶民の間では遺体を遺棄する、あるいは風葬することが一般的であったということである。そのため、この「五体不俱の穢れ」に注目することが、本節の課題である「死穢」の問題、さらには「葬送」を考えるうえで重要である。当時は道路や橋、河原が死体遺棄の場所になることも多くあり、現代の発掘調査でも平安から鎌倉時代の京都の道路の側溝や河原からは人骨などが発見されており、牛馬の骨とともに発見される例もあることから、葬送意識がない遺棄の状態であったことが分かっている。

 このように死体は遺棄され、さらに死期の迫った病人や老人などは、みずから河原などに赴いて死を迎えることもあった(貴族に使える下男・下女も死期が迫ると遺棄された)。それは高位の僧侶以外の支援者をもたない僧侶にとっても同様であったという。986(寛和2)年には、そうした僧侶たちの間で互いに葬送を行うという結社「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」が源信僧都(942-1017)によって組織された。この結社は、念仏三昧を修することを柱とするものであったが、そこに参集する僧侶の葬送協力についても取り決められており、葬送結社という意味合いをもつものであった[3]

 念仏結社の僧侶たちによって葬送儀礼は確立されていき、僧侶が葬式に関わるきっかけとなっていった。そして、このような結社が、武士や有力者の間に広まっていくこととなったが、それは人びとが「仏教式の葬送を望む」ようになったからであった。とくに「怨霊に対処するには仏教が最上の法」(高取 [1979]2010: 186)であったと高取は指摘しているように、「後生善処を祈る法会は死者の冥路に資し、護国の法会はこの世を害する霊魂の力を空無化し、その妄執から解脱させる力をもつからである」(高取 [1979]2010: 186)。どのような死者に対しても有効な力を発揮できるものとしての仏教という考え方が、奈良時代の後期から平安初期にかけて存在していた[4]

明恵房高弁

 鎌倉新仏教の源流の僧侶たちが、死穢を超越する論理を必要に駆られて確立していき、そのなかから遁世僧となって新たな宗派を成立させ、いわゆる鎌倉新仏教をつくっていくのだが、旧仏教の側からも死穢を含む「穢れ」に挑む改革派僧侶たちが輩出されていく。つまり、官僧の遁世僧化ともいうべき事態があらわれる。松尾の指摘によれば、「遁世」の本来の意味は、俗界を離れて僧侶の世界に入ることを意味していたが、僧侶の世界が俗界の影響を受ける、端的にいえば、僧侶の世界が乱れてしまったがために、そこからの離脱のことも遁世というようになった。具体的には、天皇や有力者の子弟が僧侶となって官僧世界へと入ってくることで、俗世界の力関係が官僧世界に影響するようになったこと、または、妻帯が戒律で厳しく禁じられていた僧侶たちが、稚児や童子のような男児を周囲に置き、男色文化が蔓延し、官僧の世界が乱れたものとなってしまっていた。それを嫌った僧侶たちは、そこから離れて(つまり遁世して)、一部は新たな遁世僧の教団を作り出し、それが今日でいう鎌倉新仏教の宗派にもなっていったのである。

 官僧の宗派に属しながら、戒律を重視し、遁世僧化していく僧侶としては、厳密とも称される華厳宗中興の祖である明恵房高弁(みょうえぼうこうべん)(1173-1232)、真言律宗の祖師で戒律護持・ハンセン病者救済などを行った思円房叡尊(しえんぼうえいそん)(1201-90)、その高弟で良観房忍性(1217-1303)や、京都岡崎の法勝寺の大勧進などをつとめた円観房慧鎮(えんかんぼうえちん)(1281-1356)などがいる。彼らは、改革派であるとする場合もあり、松尾のように遁世教団を作り組織化したとすることもあるが、どちらにせよ、官僧の世界から一定程度距離をもっていた人たちであると考えられる。このような遁世僧は、日本仏教におけるメルクマールであるといえるだろう。

 それ以前の僧侶と遁世僧の相違点は内的なものだけでなく、外見的な特徴も見逃すべきではないだろう。松尾が指摘するように、それ以前の官僧が白色の袈裟・法衣を着用することとは対照的に、遁世僧のそれは「黒色」であったという点にある(松尾 1995: 50-60)。黒衣の僧侶は、「異形」の姿であり、「穢色」の衣をまとった「乞食法師」であった[5]。遁世僧たちは、官僧たちによってラベリングされた黒衣によって、むしろ自分たちのアイデンティティを確立させたといえるだろう。

 

[1] 高取の推察は、われわれに豊かな想像力を与えてくれる。折口信夫の「天皇霊」についての考察を措くとしても、大原の産屋と大嘗宮が建築物としてだけでなく精神構造としても同様の形態をもっているとするならば、大嘗祭は新しい天皇として生まれることを意味するだろうし、さらにそれは神から賜るものであることをも同時に表した儀式ということになるだろう。これらの営みが行われた建物が、人為的なものではなく、自然の部材によって建築されたとするならば、あるがままのものがそのまま神意に適うものとする発想をもっていただろうことを推し量ることもできる。それはそのまま、日本のアニミズム的な自然観を背景にしたものではないかと考えることもできる。

[2] 「とんせ」「とんぜい(中世的な読み方)」とも。「世間から遁れ、仏門に入ること」。「すでに出家している者でも、その帰属する教団の組織からふたたび脱出し、求道生活に入ることをいう場合がある」(『岩波 仏教辞典 第二版』より)。

[3] 臨終作法については『往生要集』に、僧侶の結社の葬送方法については『横川首楞厳院二十五三昧起請』八か条本に記されている(松尾 2014: 60-1)。

[4] この時代には、神の祟りを読経や仏教的手段によって鎮めていた (高取 [1979]2010: 185)。

[5] 松尾の引く資料によれば、本願寺三代住持・覚如の『改邪抄』では遁世僧が「異形を好む」と書かれ(松尾 1995: 53-4)、戦国末期の史料「素(そ)絹(けん)記(き)」では、白が「天子本命(天皇にふさわしい清い色)」で、黒は「穢色」であると述べられている(松尾 1995: 54-5)。洞院公賢が1359(延文4)年に浄土宗の僧侶として出家する際に「乞食法師」の着る黒衣を着用する旨を日記『園太暦』に記したという(松尾 1995: 55)。このことからも、「黒衣」の僧としての異形性についてうかがうことができる。

 

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。