雨ニ対ヒテ月ヲ恋フ

その時々の想い・考えを書きつづってみる

日本の仏教について③

3.近世の日本仏教の制度化

近世幕藩体制のなかの仏教

 「日本の仏教について②」でも述べたように、遁世僧たちは新たな教団を作り、積極的に穢れに関わることによって、神道に組み込まれることのなかった葬送の場面において、力を発揮することとなった。それは、誕生や結婚などの生と結びついた神道と、葬送儀礼に関わる死と結びついた仏教との宗教上、信仰上の棲み分けが行われ、「安定した生活構造が確立しえた」(末木 1992: 236)と見なすことも可能だろう[1]。それゆえ、近世の仏教の第一の特徴は、「葬式仏教」の確立をあげることができる。

 そして、さらに近世の特徴としては、教団の拡大によって生じた権力との拮抗とその後の懐柔、さらに制度として確立していったことを挙げることができる。まず、仏教組織が大きな集団となり、しばしば時の権力者や地方の戦国大名と拮抗し始めた。比叡山高野山・根来、本願寺の大寺院や大教団は、近世初期までは権力者に対抗していた。また、一向一揆の拡大や京を舞台とした法華一揆などが台頭していた。織田信長豊臣秀吉は、それらの抵抗運動を実力行使によって平定していったことによって、次第に戦国領主をしのぐほどの力をもつことはなくなって行った。その後の徳川政権は、1601(慶長6)から1615(元和元)年までに諸宗派ごとに出した諸宗諸本山法度[2]・寺院法度を嚆矢として、それまで朝廷にあった僧侶への影響力を排除し、幕藩体制のうちに取り込んでいった。そのような政治的に行われていった仏教界の改変なかで、現代日本にまで関係する制度としては、このとき作られた本末制度と寺檀制度(檀家制度)がある。

 徳川幕府は、中世までに宗派ごとに成立していた本山-末寺の関係を制度化するために、各宗の本末関係を提出させ、すべての寺院を「本山―本寺―中本寺―直末寺―孫末寺」のように系列化してしまい、寺院間の関係性を固定化することを目指した。この本末制度は、寺院の力関係を明確にすることになり、「諸種の上納金をとるとともに、人事権をはじめ強大な権力をもって末寺を支配すること」(末木 1992: 238)を可能とした。さらに寺檀制度は、キリスト教の禁教の貫徹(「宗門改帳」の作成)と寺院と檀家の結びつきを固定化させ、寺院を幕藩体制のうちに取り込み、思想面でも行政面でも幕藩体制の安定化に寄与することとなった。そして、それが今日まで、寺院と信者との関係の基礎となっている。

 とはいえ、そのような檀家制度の形態も、現代では崩壊しつつある。その事例としては、檀家の減少による無住寺や過疎化による廃寺などの社会問題として語られるようになっている。檀家制度の崩壊は、地域の崩壊とそれに拍車をかける個人主義の結果であり、現代社会に特有のものであるとされるが、この見解は、一方においては正しいが、すべてであるとは言えない。

 たとえば、緩やかな個人主義は幕府によって整備された檀家制度にもみることができる。この制度は、単に寺院と家とを結びつけたのではなく、家単位で墓碑を立て、個人を記憶し、供養するという副産物を生み出したのであり、この時から個人の供養は意識されるようになったからである。そして、これが現代にまで一般化したのだ。つまり、現代になって個人主義的になり、檀家制度が崩壊しているというよりは、もともと個人を記憶するという形態がこの時できあがったと考えるべきである。それでもなお、檀家制度が可能であったのは、家制度があったと見るべきだろう。確かに、個人を供養することが仏教伝来以来なかったわけではない。高取・橋本が述べるように、法隆寺の「玉虫厨子」のような個人の念持仏を安置する厨子に見られるように、個人供養がなかったわけではない(高取・橋本 [1968]2010: 173)。しかし、伝統的な先祖祭祀のあり方としては、個人というよりは没個性の「御先祖さん」というような霊格をまつることであり、積極的に個人を記憶し供養することではなかった。家の構成員すべてが同等に供養されたというわけではないとしても、亡くなった個人を記憶する供養塔としての墓が作られるに至った点をみると、個人主義の萌芽のようなものがあることが分かる。檀家制度は、日本の近代化によって地理的・社会的な移動が自由になり、個人主義が完全なものへと展開し、家制度の維持が困難となって解体したのだと考えられる。そして、われわれが見ている仏教の現在は、この地点にあるのだ。

 

現代の仏教が抱える問題

 多くの僧侶が葬式や法事のみで仏教に関わるのではなく、日ごろから関わることを望んでおられるようである(この節は、社会調査報告書の一部であり、聞き取りから記したものである)。「よく生きるためには、死について不安に思うことなく生きること、そのために仏教の成すことはある」と述べられる方や、あるご住職は、「仏教にはまって面白さを知ってもらうためには、裾野を広げることだ」と語り、仏教を広めていくことについて考えを聞かせてくださった。

 なかでも印象的な語りは、「一般的に宗教は社会貢献すべきという考えがあるが、どのように考えるか」というわれわれの質問に対して、「都市と地方で抱えている問題が異なる」という対象者の回答であった。われわれの調査は、大学から公共交通機関を使って訪ねやすい地域にお住いの対象者に絞ったために、多くは都市部の寺院のご住職にお伺いすることになった。だが、その方がたのなかには、過疎化が進む地域の住職も兼ねる方がたもおられ、「都市と地方にある相違点」について考えを述べられたのであった。その方がたによれば、地方では寺院の経済活動だけでは生活はできず、公務員などの兼業の方がたが多く、平日は別の仕事を行い、土曜・日曜は法事にあてられるため、「地域の中心になること」や「社会貢献活動に積極的に参加すること」などの時間を取ることが困難であると話しておられた。

 確かに、「お寺はかつて地域の拠点だったのだから、地域に根差して活動していけばいいのではないか」というような意見も聞かれるが、江戸期のように国民皆仏教徒だった時代であれば、地域のお寺の公共的機能に期待もできただろうが、現在ではそれを望むのは難しい。とはいえ、信仰の自由が謳歌される現代にあって、地域全体や家族単位での信者を得ることは期待できないのであれば、個人への布教をすすめるしかないだろう。しかし、仏教は、そもそも共同体の宗教であったのだろうか。この連続の論考では、このことを次回以降で確認していくが、その前に仏教がどのように広まっていったのか、つまりどのような手段で布教がなされていったのかについて、概観しておこう。

 

仏の教えを乗せてゆくもの

 仏教が、釈迦牟尼の教えに基づくものであるならば、その教えがいかなるものであるかを伝えるすべがなくてはならないが、どのようになされていったのだろうか。真っ先に思いつくのは、仏像であろう。仏教公伝として知られる、百済聖明王[3]から大和の大王に送られた経典とともに贈られた仏像の例もある。仏像は人型をした仏神[4]、あるいは永続的に崇拝できる「神」として、仏教の教えを伝える聖なるものとして人びとのうちへと浸透していくこととなった。また、寺院にある木造や乾漆像や金銅像だけではなく、地蔵信仰によって広まった路傍の石地蔵菩薩は、地獄にまで救いを差し伸べる庶民や子どもの仏としての性格を、日常的に人びとに対して伝えたことと思う。今でも京都市内には、多くの地蔵菩薩が安置され、夏には子どもたちの祭りとしての地蔵盆[5]などもあり、身近な存在となっている。

 絵画もまた、仏教の教えを伝えるものである。世界的には、釈迦の生涯や前世の物語が描かれたもの、経典の内容が図示されたもの、浄土が描かれたものなどがある。しかし、日本においては、上記のような種類のものが少なく、密教画として描かれた曼荼羅浄土教の流行によって描かれた来迎図、禅画の多くが残されている。『岩波 仏教辞典 第二版』の「仏画」の項には、「平安末期から鎌倉時代にかけては仏教の大衆化が進み、教化布教の対象としての仏教説話画が流行する一方、中国渡来の禅宗絵画などが興隆し、仏画の展開は事実上終焉を迎えた」とあり、布教活動にも用いられたことがわかる。縁起絵巻のように寺院の由緒・起源を伝える絵巻物や、祖師たちを描写した「絵伝」は、その偉業と仏の教えの要点をわかりやすく伝える方法となった。それ以外にも、地獄図などによって絵解きを行い、死と死後の世界との関係で、仏教の教えをもとに「今なすべきこと」について語られてきた。

 さらに、僧侶そのものが仏法の乗り物となって、各地を行脚(あんぎゃ)・遊行(ゆぎょう)して各地に教えを広めていった(先述の「勧進」もまたそのひとつである)。彼らにとっては、「托鉢を糊口(ここう)の資としてひたすら解脱を求めるのが本意」(「遊行」『岩波 仏教辞典 第二版』)であったとしても、僧侶たちを迎え入れる者からすれば、それは仏法を運ぶ者であったことだろう。現代より、移動が容易ではなかった時代には、村と村、共同体と共同体を結び行く者は、世間を知るための一つの手がかりであっただろうし、時代によっては、技術を伝えるものであったと思われる。勧進を行う者も仏教を伝えて歩いただろうし、同様に念仏踊[6]は各地に広がり、今も盆踊りなどのようなかたちで残っている。また、現在では、落語や講談のようなものにとってかわられているけれども、話芸の伝統ももともと説教を行うためのものであった。

 ここまで仏像や仏画、僧侶を仏の教え/仏法の「乗り物」という言葉で表現してきたが、これを「メディア」ということができる。メディアには、情報を伝達する仲介者としての意味があるから、このように考えることは問題ではないだろう。それぞれのメディアが、仏の教えを伝え、それらに触れた者はその教えを受け取っていたと思われる。現代の寺院でも、門前の掲示板の言葉や、定期に発行されている寺院の広報、ときどきに更新されるホームページなどによって寺院の情報や仏教について発信され、人びとに教えを伝えている。SNS時代の現在では、組織のアカウントや個人のアカウントをもって情報が発信されている。このように仏の教えは、時代によってさまざまな乗り物で伝えられてきた。立命館大学社会学実習の報告書『寺院・僧侶のSNS利用について—―16名の僧侶・寺院関係者へのインタビュー調査から』では、そのなかでも仏教関係者はSNSをどのように利用しているのかということに焦点が絞られ、それぞれの章で論じられている[7]

 

[1] 日本の伝統的な信仰のかたちのうちに「死の観念」「死後の世界観」が脆弱であるか欠けているというのは、これまで多く指摘されるところである。

[2] 江戸時代の初期から本山格の有力寺院(比叡山、東寺など)や宗派に対して出された。寺院内での案を提出させたこと、また本山の影響力の強化にもつながったことなどにより受容されたという側面もあるが、幕府による管理・統制に与することとなった。しかし、民衆に幅広い支持をもつ、浄土真宗日蓮宗には当初法度を出すことができなかった。

[3] 「正しくは〈聖王〉。〔百済を立て直した父・武寧王の後を継ぎ:引用者〕日本と修好し、仏像・経論を大和の朝廷に献じた」(『岩波 仏教辞典 第二版』「聖明王」の項より)。

[4] 日本古来の神は人の形をしていなかったため、かなり奇妙なものとして映ったようだ。

[5] 地蔵盆は、近畿地方を中心として、8月23日ごろに行われる。

[6] 「僧衆の〈踊念仏〉に対して在家信者の踊りを〈念仏踊〉と言って区別する。中・近世の一般的用語としては両語を同義に用い、特に区別しないことも多い」(『岩波 仏教辞典 第二版』「念仏踊」の項より)。

[7] 本来、今回書いていることは1章を構成するものであったが、担当する学生の個人的事情により残念ながら調査に最後まで参加ができなくなり、執筆することができなくなってしまった。そのため、筆者の責任において内容も当初の計画とは大幅に変更して書かれたものである。当初の計画では、宗教は新しいメディアに親和的であり、仏教においてもそれが確認できるのではないかというものであった。当初の担当者によって、このテーマがいずれかの機会に発表されることを切に希望する。

 

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。