雨ニ対ヒテ月ヲ恋フ

その時々の想い・考えを書きつづってみる

日本の仏教について①

はじめに

 この論考の課題は、日本仏教についてひとつの見方を提供することで、仏教についての理解を深めるとともに、巷に散見される仏教用語や仏教の知識について補足する点にある(有態に言えば、私の手控えである)。とはいえ、仏教教義の正しい解釈ということに主眼があるのではなく[1]、あくまでも「社会史」「社会思想史」として(宗教)社会学的な観点から、日本のなかで仏教がどのような社会背景をもとに思想的に分化・発展してきたのかということに主眼が置かれている。それゆえ、本章における記述は、特定の宗派に対して予断をもって書かれたものではなく、さまざまな文献から得られた知識をひとつのモデルとしてまとめ(理念型)、主観的な価値判断を避けて客観的な知識として記したもの(価値自由)である、ということをここでお断りしておく。

 

 

1.転換点としての鎌倉新仏教――救済の対象を拡大する

 よく知られているように、われわれに馴染みの多い仏教宗派の多くは、12世紀末から16世紀末頃の中世に起源をもち、発展してきたものである。それゆえ、本稿では、日本仏教史としての記述を中世・鎌倉期からはじめることにしたい。仏教伝来から順番に考察するよりも、一般的に知られている事柄を中心に前後に見渡して比較しながら押さえて考察するほうが理解に資すると思われるからである。

法然源空

 この時期に成立した宗派は、法然源空(ほうねんぼうげんくう)[2](1133-1212)の浄土宗、親鸞(しんらん)(1173-1262)の浄土真宗、一遍房智真(いっぺんぼうちしん)(1239-89)の時宗浄土教[3]系3宗派、明菴栄西(みょうあんえいさい)(1141-1215)の臨済宗道元(希玄)(1200-53)の曹洞宗禅宗[4]2宗派、日蓮(1222-82)の日蓮宗(法華宗)である。たんに新しい宗派が誕生したというだけでなく、忘れてはならないのは、これらの鎌倉新仏教の諸宗派以前の仏教、いわゆる旧仏教の復興運動もこの時期に展開されており、この時期は日本の仏教の転換点であったということである。

親鸞

 この当時の仏教の特徴を端的にまとめるならば、「個人」の救済に注目が集まり、寺院の担い手が「個人」単位へと拡がっていったということである。このことを宗教社会学者の松尾剛次(1995)は、「勧進(かんじん)[5]」「穢れ」「破戒[6]」について検討しながら指摘している。

明庵栄西

道元


 松尾によれば、中世以前の仏教寺院の建造・修理・運営を経済的に担っていたのは、国家や有力な氏族であったが、中世に活発化した「勧進」活動は、寺院の担い手が個人単位へと拡がったことを示しているという。また、勧進活動が全国的に盛んに行われたのは、仏教への信仰が個人単位となり、拡大していたことをも示している。さらに、救済の対象も貴賤を問うことなく、むしろ「穢れている」とされている人びとへと対象を積極的に拡大していくのも中世の特徴であった。それ以前の救済の対象は、天皇や権力者を中心とし、国家を鎮護するためのものであり、それと比べれば、対象としても個人を前提にするものへと変化していたことがこの時期に現れているといえる[7]

 では、「穢れ」を持つものとされたのは、誰であったか。それは、身体障碍者を含む「非人[8]」、死穢の象徴としての「死者」、五(ご)障(しょう)・三(さん)従(じゅう)[9]の存在としての「女性」の三者であった(松尾 1995)。当時、非人とされていたのは、ハンセン病[10]患者や病人、身体障碍者や乞食とされた人びとであった。確かに、そのような人びとが救済の対象にならなかったわけではないが、積極的に救済されたのは、中世の仏教者によるところが大きいようである。また、先にも述べたように、女性は、五障・三従の穢れた存在として、僧侶の修行の場からは遠ざけられており、また、「死者に触れたり、葬送、改葬、墓の発掘などに携わったために生ずる穢れ」である死穢を避けることは、天皇という聖なる存在に仕える国家公務員的な立場としての官僧にとって重要なことであった。

 

日蓮

 松尾の定義に従えば、「官僧」とは、「天皇から得度を許可され、国立戒壇のいずれかで授戒を受けて一人前となった国家公務員的な僧侶、いわば国家的な入門儀礼システム下にあった僧侶(集団)」(松尾 1995: 28)のことである。また、官僧とされるのは、鎌倉新仏教以前の南都六宗(俱舎(ぐしゃ)・成実(じょうじつ)・律(りつ)・三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん))と平安二宗(天台・真言)であり、基本的にこれらの寺院は、国家からの給付を受けており、お布施をするような信者集団を必要としなかった。それゆえ、天皇を中心とする政治システムのなかで主に鎮護国家を祈ることを期待された官僧たちは、穢れを遠ざける必要があった。

 

[1] 言うまでもないことだが、「“正しい解釈”などない」ということではない。どの宗派にも、それぞれの解釈があり、それぞれに「正しさ」というものがあるだろう。それゆえ、正しい解釈というものを一義的に定めることは困難である。このような事情から、本章でのさまざまな仏教的用語は一般的な解釈にとどまっている。重ねてお断りしておく。この論考は、以前、非常勤で受け持った社会学の調査実習の報告書で書いた文章を一部変更したものである。

[2] 文献によっては、坊号を「法然房」とする場合もあるが、ここでは『岩波 仏教辞典 第二版』「法然」の項目の表記に従った。また、この連続論考で使用している祖師たちの画像は、Wikipediaから取得した画像を加工したものである。

[3]浄土教」とは、「阿弥陀如来の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え」(『岩波 仏教辞典 第二版』「浄土教」より)のこと。

[4] 「禅は、インドではなく中国発祥の思想」。「道教などをベースとした出家者コミュニティがまず中国に存在し、それが『釈迦の仏教』の修行の一つである『禅定』(瞑想によって心を集中する修行)と結びついて、仏教集団となっていったのが起源とされ」る。「禅宗には特定の根本経典がなく、教えよりも生活スタイル(実践)がベースとなっている」(佐々木 2019: 209)。

[5]勧進」とは、「本来は、人びとを教化して仏道に入らせることを意味したが、後には社寺堂塔の造営・修復・造像・写経・鋳鐘など、種々の作(さ)善(ぜん)に結(けち)縁(えん)〔善行へと関係づけること:引用者〕して善根を積むことを勧め、金品を募集することを意味するようになった」(『岩波 仏教辞典 第二版』「勧進」より)。

[6] 「戒を破ること、また戒を破った人のこと」(『岩波 仏教辞典 第二版』「破戒」より)。

[7] たしかに、これ以前にも僧侶や信仰者によって、現代で言うところの福祉施設が設けられ、活動が行われている。聖徳太子四天王寺に作ったとされる四箇院(しかいん)や光明皇后悲田院(ひでんいん)、行基布施屋などがある。

[8] 「非人」という表現は問題を含んでいるけれども、当時の穢れの認識を強調するために、ここではこの表現に従った。また、松尾も指摘しているように、ここでの非人は、「近世(江戸時代)の制度化された身分としての非人とは異な」り、「癩病患者(ハンセン病患者)を中核として、乞食・墓堀などに従事した人々のこと」(松尾 2011: 52)である。

[9] 五障とは、「インド初期の仏教に出てきた思想で、女性は梵天帝釈天、魔王、輪廻王、仏という五つになれないというもの」で、三従は、「結婚前には父親に、結婚後は夫に、夫の死後は息子に従う存在」のことを言い、「独立人格を認められていない」存在として、女性は仏教的な能力に欠けるとされていた(松尾 1995: 122)。それゆえ、女性が成仏するためには、男性に転生する必要があると考えられていた。

[10] (松尾による伝聞情報ではあるけれども)らい菌が発見されるまでの皮膚科学は、重篤な皮膚疾患をハンセン病と区別する点に重点がおかれていたという医学部教員の発言が紹介されている。そのために、栄養状態を戻し、清潔にすることによって完治する皮膚病との違いが理解されていなかったため、ハンセン病を直すというような奇跡が起こる現象の原因となっていたようだ(松尾 1995: 83)。

 

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。